
今回の震災で、はっきりしたことがある、
原発はやはり危険だったとか、東電や経済産業省は腐っているとか、政府の言うことは信用ならないとか、そういう一連の教訓の上位に来る、とても大事な教訓。
「国家は国民の生命・財産を本気で守ろうだなんて、これっぽっちも思っていない」
末端の公務員の思いはどうであれ、国家中枢の意思ははっきり見えた。そう思う。
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国家の本質とは何だろうかと考えていたとき、国家とは「巨大な集団安全保障装置」のようなものではないかと思ったことがある。これは、ルソーの社会契約論の思想に近いもの。人々に迫り来る様々な脅威、天災や他の集団からの侵略、その他予期せぬ脅威に対応するには、人々が協力し、集団の力を集約することが不可欠であると、これは小学校あたりからさんざん私達が教えられてきたことでもある。
そして、そのために全員で負担を分かち合い、供出しあうのが税金。税金はいわば掛け金のようなもので、それによって、集団で安全を保障してもらっている。
少なくとも最近までは、そうでない事例が散見されるものの、根本的にはそういう仕組みなのだと思っていた。
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しかし、今回、東北の方々、特に福島の避難生活を余儀なくされている方々は、生命・財産の安全を保障されていない。財産である土地は荒らされ、生命の危機にすら晒されている。掛け金である税金は、彼らにとっては全くの無駄な投資であったことになる。
つまり、あまり信じたくはないのだが、税金とは国民の生活を守るために国民のために使われると言うのは方便であって、もちろんその一部は国民のために使われているのかもしれないが、基本的には国民に還元されるものでは無いのだろう。
思い返せば、この国は、国民の生命・財産よりも別の何かを、何度も何度も優先してきた。うすうすとは感づいていたけど、信じたくなかった。しかし、今回の震災でそれはほぼ確信に変わってしまった。
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国家は私達のような普通の国民を守ってくれない。本気で守る気など全く無い。
外国の侵略から本気で守る気も無い。国内の犯罪から本気で守る気も無い。
低迷する経済情勢から守る気も無い。そして今回のような天変地異から守る気も無い。
この中のいくつかについては、既にその能力まで失ってしまっているのかもしれない。
この国は、結局「普通の国」になってしまったのだろう。
いつからそうだったのか。たぶん、ずっと昔からだ。
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そう気づいたところで、どうすればいいのか。この国を、国民の幸福のために税金を使う国に変えることは出来るのか。
現在の国家の盤石な体制を見ていると、残念ながら、絶望感以外の何も感じない。